(今更感想)朝彦と夜彦1987

 山田朝彦 三十歳、高校教師。
一九八七年の夏、俺は十七歳の高校生だった。
その頃の俺の親友……名は山田夜彦という。
名前は似ているが出席番号が一番違いなだけで、親戚でも兄弟でもない。
夜彦は、身勝手で気分屋で躁鬱の激しい厄介な友人で、
いつも息をつくように嘘をついていた。
嘘つきだけど夜彦は正直で。
嘘つきだけど夜彦は、純粋だった。

俺は、夜彦が嫌いじゃなかった。

これは公式HPのinformation文なんですが朝彦の台詞の一つです。あらすじではなくこの文章を選んだことにとても大きな愛を感じていて好き。 

 

<2020/11/11追記>

公演発表おめでとうございます!なお、このブログ(初演感想)にはネタバレが含まれます。ご注意ください。

<追記ここまで>

 

 

11/1 14:00 桑野法月ペア(トークショーあり)

とても今更な感想なんですが、もう書きたくてたまらないと脚本菅野彰さんの観劇エッセイ*1(以下エッセイ)を読んで思ったので。どうしてもスケジュールを割けず、1回しか見ていないので記憶違いがあったり、桑野晃輔さん好きなのでだいぶ贔屓めの文章かもしれないです…

 

一言で言うとめちゃくちゃよかったです。一言で収まらないんでネタバレしたりエッセイとかに触れながら書きます…エッセイにて菅野さんのすごくいい文章が残ってるのでみんな買おう…安い…

朝彦夜彦、本当に2人の言葉の選び方が好きで調べたら脚本が小説家さんが書かれたということで納得。菅野さんはブログでもとてもいろんな人に考慮した感想が書かれていたのですが、エッセイもひとりひとりの役者さんに丁寧に触れていて、読みながら何度も反芻してしまうほどでした。みんな買おう(回し者ではない)

 


この舞台は必然性の高いストーリーというか、こうするしかなかったがたくさん出てくる話だなと感じました。転がった石は止められない。

一字違いで出席番号がひとつ違うだけで兄弟かと聞かれたり、夜彦が休めばプリント持って行けと言われたり。名前が似ている、そして出会ったことだけが偶然で(もしくは運命かもしれない)、世話焼きの朝彦と躁鬱の夜彦が惹かれあうのも17歳の狭い世界では必然的だと思う。17歳もすごく丁寧に描いていて、「今だったらこうする」っていう30歳の朝彦がいうことにより、17歳の想像できる選択肢の少なさという未熟さが際立っていた。

 

どこから泣いたのか覚えてないんですけど、気付いたら私は夜彦に感情移入して見ていました。個人的に思うところがあったのもあるけども、これはいろんな人の感想を見る限り、桑野法月ペアだからだったからだと思う。

そもそも朝彦は自分のことを普通と言い、夜彦自身は大概の人がかかる病気にかかっているという。真逆だけどどちらかに人間は分かれるように思う。

朝彦の普通さっていうのは特筆することのなさ、両親は健在で、少し面倒見がよく特別頭がいいわけではない。それを象徴するものとして「朝起きて、ああ朝だと思う」という台詞。そして将来を語る場面では、仕事にくたびれながら子供と共に出掛けて「これが俺の人生だと小さく満足する小さな未来だ。」と語っている。

一方夜彦は夜が怖い、不眠症。自分の部屋では発狂して、学校では明るい躁鬱。勉強は不安のためにのめりこみ朝彦よりもいい成績。そんな夜彦にとって朝彦が簡単に語る夢も持てない。

少なくとも私が見た、法月さん演じる夜彦はとても人間らしかった。毎日苦しんでいる、でも本当におかしくなれない。ぎりぎりの理性や自我がある、そういう人間らしさ。その夜彦の隣にいる朝彦は取りようによってはとても傲慢だ。なんだけども桑野さんの朝彦がとてもまぶしく、真っ当で普通で正しいんですよ。夜彦に翻弄されつつ、ちゃんと夜彦を正そうとしている。それはあくまで普通の17歳の尺度で17歳の考えられる程度の正しさなんですけど。この朝彦を見ていると迷うことはあっても間違わないんだろうなと思うんです。そういう陽の引力がすごい。そのため闇属性である私は存分に夜彦に感情移入してしました。

だけどもあさましい朝彦は夜彦の禁句に気づきながら、夜彦の前で「あ~死にたい」って健やかに言って夜彦を怒らすんだけど、もう涙だばだば。夜彦はどんな苦しさを伴っているか朝彦は分からない。当然のように俺だってそう思う日ぐらいあるって言うんです。そりゃそうだ、と両手を上げて降参したくなるほど真っ当なことを朝彦は感じている。朝彦は普通で、適度に気が使えなかったりする、そういうことを分かっているからこそ苦しい。だって朝彦は何も悪くない、夜彦だって何一つ悪くないはずなのに苦しさは消えない。


私は夜彦の過去がもし何かとてつもない大きな事件が起こったせいで、とかだったら一気に興ざめするところだったのですが、さすがというか、ここもとても悲しいくらい、ただ何もないんです。どういう感情を抱いたか形容しがたい、そういうエピソードだけがつらつら出てくる。もちろん父親の自殺という大きな事件を目の当たりにしているけど、結局父親の死の真相は知らず、音楽教師と同級生に対してふざけるなと心で罵倒しながら、ありがとうと言って泣く。そこにあるのは自分勝手な人たちの果てしない善意で、怒りや悲しみよりも空虚さがある。周りの善意にどんどんと押し込められて、夜彦は嘘を呪いながら、自分も嘘をつく。そういう過去を持った夜彦はどんどん死に近づくのに、理性で死にたいという感情と戦っていたように見える。あとは死にたいというより積極的なものでなく、正確には生きたくないという消極的な感情だったんじゃないかな。万引き少年の飛び降りを見た夜彦は怯えてるように見えた。死にたい動機はないのに生きたくない感情が、あの飛び降りという行為に結びつくのではないかと怯える。


なんとかしたいと思っていた朝彦は夜彦によって考え付く限りの選択肢をどんどんつぶされ、最終的に一緒に死のうかと言う選択肢をとるのはやはり当然だと思う。そこに行きつくまでの台詞が本当に好き。「3じゃなく、俺は夜彦の親友だから1か10をつけなきゃいけない」。親友って妄想?の夜彦は否定するんだけど、朝彦はそうでありたくて、そのために死を選ぶし、「生きるか、生きるのをやめるか」という、朝彦にとっては夜彦の禁句に触れないことでも、結果的に夜彦の生きたくないという感情に沿ってしまった。これが「生きるか死ぬか」だったらまた変わったのではないかと思う。

 

やっと30歳朝彦について触れますが、常に後悔をしていたように感じた。結局結婚して子供も生まれてる教師朝彦は依然夜彦から解き放たれてない。17歳よりずっと30歳の描き方のほうが難しいと思うのですが、エピソードがまた絶妙。宅急便のおっちゃんにキレて、なんでこんなことをと思う。通知表には3をつけたいのにずっと戸惑っている。30歳のエピソードから17歳のエピソードが出てくるけど、一つ一つがうまい。
どう解釈しても17歳夜彦の登場は30歳朝彦の妄想でしかない。朝彦は今でも17歳の夜彦を見るということが、たとえどちらのエンドだろうと自分の選択へ感情をが夜彦を通して現れさせている。朝彦にとってあの夏をたぶん忘れられないのだ、平凡な自分にとって親友のような、確かに「何か」だった夜彦との約束が大切で、その刹那的な熱を忘れられず未だに持っている。

 

夜彦は死んでいたのかどうかっていう話になるんですが、私は死んでいないと思う。まず朝彦に熱中症なんて妄想は出るのかという気持ちと何よりも父の死に呪われてしまった夜彦に朝彦の前で死んでほしくないっていう希望があります。
恐ろしいことに死んでいないことがハッピーエンドとは言い難いんですよ。一緒に死ななかった、なおかつ夜彦も死ななかったのに、それも含めて朝彦は後悔してる。つまり死ななかったエンドとは「朝彦は一緒に死にたいと思ってるエンド」なんです。17歳の頃より現在進行形で思っているということが闇深いよ。教師である朝彦は嫌でも夜彦を思い出す(そりゃ同じ学校に勤めてたら思い出すわ)、じゃあ30夜彦は妄想かもしれないんだけど、そういうこと言い出したらキリがないからやめます。ただ唯一朝彦が救われる出来事としては共学になるということなんじゃないかな。いろんな気持ちが詰まった出身の男子校に女子というイレギュラーが入ってきて日常になるというのは17歳の出来事から遠ざかるきっかけになるのではないかな。いや、それが救いなのかは結局のところ朝彦しか分からないのだろうけど。それすらうっとうしく過去にしがみつくかもしれない、ここはもともと男子校だったと女生徒に永遠に語っているかもしれない。

 

終演後のトークショーでは桑野さんは「朝彦が躁鬱になる話」といっていた。朝彦を演じる彼にとって30歳を躁鬱と解釈していて、そうか、朝彦は夜彦の気持ちを分かるようになったのかな(でもそれって生きたくないってってことじゃん?!)役者さんも人によってはエンディングを解釈しきってないとかあるみたいで楽しかったです。

 

そして、結局俺たち(の関係)は「なんだった」んだという会話が何回かあるんですけど、名付けられないっていうのがもはや答えな気がする。友情とか親友って呼ぶにはこう、対等ではない関係だった。朝には太陽が昇るし夜には月がいる。巡り合わない。親友って言葉を出してわざと否定させたり。他人や私たち観客が名付けたっていいけど、結局朝彦と夜彦にしかない感情や熱や感覚があるのだろううと思う。だからこそ私はこの2人が大好きで、遠い場所で一生わからない2人のことをずっと考えてると思う。

 

そんな2人に対して様々な感情が巡って未だに反芻してるんですが言語化してるは冒頭に書いたとおりいくらか浄化できたからです。きっかけとなったエッセイにて少しだけ脚本にも触れていたのですが驚いたのは、ト書きの多さ。

この舞台はリーディングドラマ(朗読劇)なのですがその選択をしたことにとても納得しました。舞台の冒頭部分もエッセイに載っています。舞台では朝彦の様子をナレーションのように夜彦役の方が説明するところがあるのですが、本来ト書きなんです。しかもさすが小説家さんというか、ト書きですら情緒溢れまくっているので、本当にこのト書き部分を伝えることのできる朗読劇はとても正解だと思う。相変わらず中屋敷さんの天才ぶりにおののくしかなくなっております。

 

裏話。
書籍掲載時はタイトルが全く違いました。今回のためにタイトルをシンプルにしました。
打ち合わせで中屋敷さんが、
「僕このタイトル好きなので何処かで使っていいですか?」
と言われて嬉しく快諾しました。
結果、思いもよらないところに入った。
そこ鳥肌立つくらい、いい。

菅野彰 (@akirasugano) 2015年11月1日

菅野彰 「朝彦と夜彦1987」を終えて/演出家中屋敷法仁より
タイトルについて、このように語っていますが私は血眼で探しました。戯曲が欲しかったのですが本当に出回っていないようなので、もし権利問題クリアするなら書籍電子書籍その他なんでもいいので出してほしいです。もし関係者の方々このブログ読んでたら頼みます。(※8/12 追記 再掲載されました!売ってます!)

つまり私はタイトルを発見しました。そしてそのタイトルは本当に見事に、一度しか見ていない私でも覚えているような印象的な箇所に、自然に存在してました。2人関係や一瞬の青春の温度、その思いの長さのようなタイトルでした。多分菅野さんはあまりこのタイトルを広めたくないように思えたのでツイッターとかで書けないな、と感じたのですが、エッセイにてタイトルを載せていました。それくらいには広めたくない、でも今回舞台を見た人に、この舞台がもしかしたらどこかで上演されるときのために知ってほしい菅野さんのいじらしさですかね。ちなみに戯曲は国会国立図書館にあるそうなので今度読みに行く予定です。

 

 

 

 

再演してほしいなって、口に出していうの簡単なんだけどそもそもキャストが同じかどうかとか会場はどこだとかどれくらいの期間なんだとかいろんな問題が重なってくるんだよなと勝手にうんうんと考える人なので私はあんまり言わないんだけど、この作品は是非再演してほしい。キャストが変わっても、朗読劇でなくとも、どういう形でもいい。私は朝彦と夜彦が大好きなので、2人を、また一目でもいいから見たいのです。これはエッセイにて全く別の文脈で出たんですけど本当にそうだなと、とても好きな言葉だったので。

 成功と人が見るものの根本は、なんでも基本は愛だと私は思っている。 

 

どうか愛のある再演を。

 

 

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*1:小説Wings (ウィングス) 2016年 03 月号 「非常灯は消灯中」菅野 彰