『朝彦と夜彦1987』 2020年、冬より

朝彦と夜彦1987 2020年冬公演感想
Aチーム 佐伯大地・稲垣成弥
Bチーム 吉村駿作・菊池修司
Cチーム 滝澤諒・織部典成

 

 

 

 

まえがき

『朝彦と夜彦 1987』を冬にやるという発表を聞いた時は震えた。その手があったか!!と叫びたくもなった。この舞台は2人の登場人物が2つの季節を行き来する。ほとんどは夏だが、物語は冬から始まり冬で終わる。「今日は12月、クリスマスの少し手前」と言われて鳥肌を立たせながら、「良かった」と思って泣くチームがあった。死の冷たさに沈むしかないチームもありました。

今回、初日の公演は中止になった。公演前にスタッフが一名発熱し、全員PCR検査を実施、陰性は確認されたが安全を第一に考え、初日のみ中止となった。本当に発熱を申し立てたスタッフさん、検査を行いその中でどうするか調整をしてくれた人達には感謝したい。2020年12月に演劇を行うということは、それほど慎重にならざるを得なかった(ということを、いつかこの文章を読む人のために書いておく)

ストーリーについての感想は、過去大体書いてしまったので、今回もチーム別感想を。ただ2020年版はト書きセリフ(と勝手に呼びます)が追加されていた。「「十七歳のふたり」」や「窓から入ってきたのは17歳の夜彦」などなど。それまでは声色と雰囲気、SEだけで年齢や季節の行き来を伝えていた。伝わっていたからすごかった。前回までの演出も好きだったけど、言うことで時間や場面が鮮明になり初見に優しい仕様になっていた。Happy!

 

 

Bチーム感想―――『君を救いたい』

私はテニミュが好きで、特にここ数年、舞台は8割以上はテニミュしか見ていないような状態なので、テニミュに出演してる俳優くらいしかよく分からない。ので、今回Bチームで知っているのは吉村駿作さんだけだった。桃城が好きで、かつ前回朝彦と夜彦を見てくれた友人に吉村さんが出ることを伝えると「絶対朝彦じゃん!」と言った。そのとおり、朝彦だった。今回、結果的に2020年版の初日になったふたりだったが、私はとてもそれが良かった。もちろん、本来公演できた順番でできたほうが何倍も良いことだが、ずっと「見たい」と祈っていたような、朝と夜がやってきた気がする。
吉村朝彦は、背筋の伸びたいいやつだった。中学では生徒会長やったけど高校ではみんながあんまりやりたがらない委員会に入ってしまって、でもおそらくなんだかんだ仕事はサボったりしない。同級生にも先生にもいろんなことを頼まれ、嫌な顔できないような朝彦。遅れをとってしまうような人間を放っておけない、例えば老人が駅で右往左往してたら声をかけてしまうような、そういう朝彦だった。そりゃ宅急便屋の親父にキレたときはみんな驚いただろうな。菊池夜彦は、怯える子供だった。父親に愛されたかったのに遺されていった、どうしてどうしてと疑問を抱え、育ってしまった子供。悲しそうで、可哀想で、我儘で、あと実は可愛い。この夜彦は可愛い。幼さを滲ませるだからだろうか。

朝彦は、最初からなんだか夜彦が愛おしそうだったし、夜彦もまた、彼に強い憧れを抱いていた。見終わったあと「愛し合っていたな」という感想を抱いた。夜彦は、もし俺があの父親の子供ではなかったらという眼差しを朝彦に向ける。憎しみひとつない無邪気で憧れの眼差し。自分の話をよくよく耳を傾ける朝彦を、夜彦は恨むことができない。今回はト書セリフが追加されたが、Bチームは朝彦の記憶をたどる旅を、夜彦が導いてくれてるような気分になった。どのシーンだったろう、朝彦の気分が滅入ったあと、夜彦がト書セリフ「十七歳のふたり!」と叫んだ。子供みたいに、ねえ、パパそんな顔しないでよとでも言うかのように。その夜彦は幻想なのだが、幻想が現実と乖離してるとは限らない。朝彦が作った夜彦が、夜彦らしくないとは限らない。

死の話から、父の記憶、幼いころから今までの記憶が溢れてく夜彦は可哀想だった。記憶がどんどんと曖昧になる。吉村くんが演じた音楽教師は、1ミリも悪意がなかった。「やばいやつ」とかじゃなくて、どこまでも善意で、できることをしようと思ってやっている。(問題は相手を見ていないことだ。どんな少年もそれで救われると思うのは乱暴すぎる)

 

どんどんと鬱になって、眠れないでいる夜彦を朝彦は非常に辛そうに眺めた。「なにか」という教師の言葉を飲み込んでしまい、あるいは夜彦はすでにもう「なにか」になってしまい、朝彦は必死だった。(30歳の)今なら、病院に行けと言えたと語る朝彦の後悔の色は強すぎる。本当に本当に辛そうに、ノルアドレナリンセロトニンが出る薬について語る。

(ここからはいよいよ私の二次創作だが)17から30になるうちの、いつかの勉強でそれを知った朝彦の感情はどんなものだったんだろう。なんだ、そんな薬があるのか。俺が知っていれば、あいつに飲ませれば、楽になれたのだろうか。それを知った朝彦はどれだけ夜彦のことを思い出したんだろう。と思うと泣けた。 どうにかしてやれたかもしれない、でもどうすることもできなかった。Bチームは朝彦を見てるとどんどんと涙が溢れてきた。夜彦を、傷ついた子供をどうにかしたくて、朝彦は必死になる。してやれることを探す。可哀想だからじゃなくて、傲慢だからじゃなくて、「なにか」が大切でたまらないからだ。愛しているからだ。これ以上苦しまないでほしいからだ。

 

 

私はこのチームにグッドエンドを、つまり誰も死んでないというエンドを疑うことが出来ない。なぜだろう。「今日は12月、クリスマスの少し手前。夜彦の30歳の誕生日だ」と言われた瞬間、生きていて良かったと思わずにはいられないようなふたりだった。最後の独白は生きている夜彦に投げかける、30歳の朝彦に見える。17歳を救ってやりたいと思う、思い続けて教師になれた朝彦だった。

 

 

 

Aチーム感想―――『せかいでいちばん怖い病』

稲垣成弥の怪演。
成弥さんは夜彦っぽいなと思ったし、絶対怖いタイプの夜彦だとも思った。このチームであらかじめ知っていたのは稲垣成弥と、2人が30歳で、知り合いであるということだ。

登場した瞬間、朝彦も夜彦もデカくて驚いた。経験が十分に刻まれた顔はシリアスを香らせる。「サスペンス始まる???」と思った。ふたりを取り巻く空気は異常に重たい。身体がデカいからか、マグマみたいな強いエネルギーが渦巻いてその正体が見えない。深くて、暗い。

佐伯朝彦は「普通にいいやつ」だった。妙に品が良くて育ちも良さそう。細かいことは分からんが頼まれたことはしっかりとこなす。気が弱いから政治家にはなれないが、しっかり教頭くらいにはなるだろう。30歳では子供っぽさもある。ちょっとわがままな朝彦。確かにおまえには気の強い女がいい。
稲垣夜彦。今回の戦犯。恐ろしいほどのエネルギーを見えてくれた。演じがいがあるのは夜彦だと、過去に脚本の菅野彰さんも一度言っていたが、その「演じがい」を余すことなく食べ尽くしたのが稲垣成弥だった。こいつが談判にきたら泣いて逃げる。死にこれ以上ないほど怯え、自分が持つ病に苦しめられた。内側にも外側にも狂気がいる。

 

(若干乱暴な表現ではあるが)男が考える、男同士の関係性みたいな印象を抱いた。序盤ウェットなものがない。朝彦は「仕方ねえなあ」と面倒を見る。夜彦はおニャン子クラブにセーラー服を着て出ようかと男子校でゲラゲラと笑っている。男臭い。ふたりが理解しあおうとしている印象は抱かない。

初めから幻想夜彦は健やかだったこと、思い出の夜彦とまったく違ったことは驚いた。朝彦がそう望んだのが分かる。それくらい彼が患った病は重い。思い出の夜彦はもっと暗く、怖い。幻想は元気で、どちらかと言えば躁に近い。だから見てられなかった。夜彦が怖い。

なんであのときだけ約束を破った? 死にたいと思ったら30まで生きられない。死にたいを健やかに言うな。

 

「嘘をつくな」

 

 

さて、では佐伯朝彦はどうだったか。”追い詰められない”のだ。いや、十分追い詰められているんだけど、「鈍感」なのだ、ちゃんと。この朝彦とは死の恐怖が、夜と朝の恐怖が分からない。このあとまた詳しく書くが、朝彦は17歳の夜彦を患ってしまっているにもかかわらず、どうにも無自覚なのだ。

だから稲垣夜彦は何度も「再演」をする。そんな、亡霊夜彦の物語であるように感じてしまう。亡霊はよく言って聞かせる「何故、来なかった?」

 

 

*朝の一番眩しい時間と、夜の一番深い時間
稲垣夜彦の演技は印象に残るものが本当に多かった。(これを「演技」と括るのは間違いかもしれないが)もう一生忘れられないと思ったのは千秋楽、「小さな木の実」を聞いて、あいつらみんな死ねと叫ぶ勢いで台本を落とした。アクシデントか演出かは分からない。そしてこのあとのシーンは夜彦が自分の記憶のふたを開け、語りが止まらなくなるシーンでもある。2つ上の嫌な上級生、父の死、両親の言葉、小さな汚い灯油のにおいのする倉庫。そして彼女との件まで、台本を拾わなかった。拾えなかったのか、拾わなかったのかは分からないけど、一切その素振りを見せなかった。

もっと細かいことで言えば、ヘアヌード写真集と陰毛のシーン。化学準備室に寝そべり会話をする夜彦。朝彦の「毛なんか絨毯にもシーツにも落ちているのにな」でうわっと気づき服についたほこりを手で払う。神経質、潔癖。
稲垣夜彦は「その父親を止めらなかった子供が僕でーす!」といやに明るく言う。嘘がむなしい。空っぽになっていく。痛々しくなっていく。もうどうすることもできないほど。

二十日鼠と人間」を読んだ夜彦が、「自分で引き金を引くやつのほうがいいやつだ!」と朝彦に語るシーンがある。あの稲垣夜彦、奇妙に明るくて嫌なんですよね。嘘っぽいというより幻想っぽくて。朝彦が自分がしたことを正当化するために作りだした記憶のように思える。

 

朝彦に死にたい朝を遺したりしないか? と問うたあと「良かったなあ、この子供たちはきっと健やかになる」とこれ以上ないほどうれしそうに言う夜彦…このまま終われば、赦しのシーンだったと思う。

しかし夜彦は言う。「それが聞きたかったんだろう?」「みんな健やかになる。俺もそれを望んでいるよ…」まるで呪いをかけるように、温度のない声でゆっくり、たっぷり含みを持たせ、17歳の夜彦は窓へ去る。

 

*最後の声
Aチームの千秋楽、拍手のあとに抑えようにも抑えきれないといった人の声がした。「ねえ、最後!」「絶対死んでるよね!?」わっっっっっっっっっっかる………と思いながら黙って代わりにTwitterで騒ぎました。
この舞台は校舎の外(にいると思われる)夜彦が「何やってんだ、朝彦。早く来いって」というセリフで終わる。Aチームの千秋楽、その声の主が分からなかったのだ。30歳にしては幼すぎる。夜彦にしては健やかすぎる、子供のような声…。
なんだったんだあれは、と思った観劇から一週間たち、このブログを書いている今日、するすると解釈がつながっていった。

夜彦という亡霊は3番目の子になろうとしているのだろうか。佐伯朝彦と夜彦の父親が重なる瞬間がある。「みんな健やかになる。俺もそれを望んでいるよ…」とああいうふうに言った意図はそういうことだろうか。夜彦はムーの内容を「生まれ変わりがどうとか」と指摘していたのはそういうことだろうか。夜彦はただの朝をたくさん迎える子になるのだろうか。

………と言い切るには、はっきり言って点と点を繋げすぎている。解釈は拾って集めてこちらが勝手にするひとり遊びだとしても、さすがに思い違いのような気もする。どうなんだろう。どうだったんだろう。

 

 ただ、おそらく朝彦は生きていく。無意識に、正しく死に理解のない朝彦は子供に死にたい朝を遺さないことを選んでいく。亡霊に付き纏われようとも。

 

 

 

Cチーム感想―――『ふたりが出会う』

夜が深すぎるAチーム。夜を救いたいと願うBチーム。それぞれを見れたおかげで、Cに対して肩の力は完全に抜けていた。もう十分いいものを見せてもらったなあという心持ちでいた。(去年も後半のチームに同様のことを思った。最初のチームのほうがやはり緊張する…)
今回のチームの中で一番若い座組であるということは公式のツイートで観劇前に知った。去年の織部くんの朝彦役を知っている。(余談だが織部典成ってものすごく夜彦っぽい名前だな~と去年から感じていた。たぶん「織姫と彦星」のイメージからだろう、夜の星っぽい)
織部朝彦は好青年で、いかにも「朝彦」であったと記憶している。

 

この舞台はまず演者2人が登場し、夜彦役がタイトル、(元は)ト書きである描写を語る。それに応じるように朝彦が椅子につく。その登場シーンでふたりが並んだ瞬間「なんだこの夜彦っぽい朝彦と朝彦っぽい夜彦は!」と思った。遠くをにらみ、ポッケに手を突っ込んでいる明るい金髪の男は白い服を着て、端正な顔の背筋が伸びた黒髪の男は黒い服を着ている。「え!?知らない…!」と胸が躍った。
次に「なんだこの小器用な男は!」と滝澤朝彦に思った。冒頭の、夜彦が美術教師に談判に行ったのを朝彦が再現するシーン。夜彦は絵が下手で、カエルを描けと言われたらとにかく気持ちの悪いカエルを、ネズミを描けと言われたらとにかく気持ちの悪いネズミを描く。戯曲どおりに上演されているならば、紙に描かれたカエルとネズミがいるはずだった。しかし中屋敷さんが演出する朗読劇には小道具がほとんどなく、2人が持つ出席簿を模した脚本、ステージ上には教員用の椅子が舞台上に置いてあるだけだ。

先生、俺がこんな!(カエルを見せる)カエルを描いたり、こんな!!(ネズミ)を描いたりするのは障害の一種です。

2つ目のこんな、つまりネズミは言葉としては省略されている。滝澤朝彦はこの2つ目の「こんな!!」を、自分が見せた(実際にはない、パントマイムで)紙を見て、描かれているのがとてもネズミとは言えないから「ネズミ」という言葉を飲み込み、「…を描いたりするのは障害の一種です」というセリフへつなげた。本に書かれていることを、一瞬の演技で伝えた。本当に、非常に細かい話だ。別にそこまでする必要はないと思うが、彼はその本当に非常に細かいことをした。

 

何度かは思った。こいつはもしかしたらキ〇ガイというやつだ。普段出版倫理や放送倫理の中にあると使えなくなる言葉を人は舞台上でやたらと使うが、舞台の上には倫理がなくてもいいという話なのか? ……まあ、倫理はいいが、思いやりは大事だ。

このセリフは数年前「朝彦と夜彦1987」を初めて見たときから好きだった。急に舞台を皮肉り、朝彦役が第四の壁を越える。滝澤朝彦は脚本を指でなぞり、「キ〇ガイ」という言葉を見つける仕草をしたあと読み上げる。それから顔を上げ、「普段出版倫理や…」という続けた。このセリフの意図を完全に汲み取った振る舞いをする。すごい。何者だよ、マジで。

 

前半、2人の掛け合いは念入りに軽快だ。(脚本が元からそうなのもあるが)ちゃんと笑えたし、間もとてもうまい。2人とも影やこの物語の暗さを感じさせない。
この2人には互いに友達らしい友達もいないというが、つるむ仲間はいたと思う。でもちゃんといろいろ話すような友人が互いしかいなかった(朝彦は外面が良く、夜彦は躁状態しか見せていないとか)(クラスで話すだけの仲視点で二次創作が描きたいと初めて思った)(青春というか、リアルだから校舎の香りがする)

織部夜彦は自分のことも含め無知だ。いつもだるそうで、勉強はできるのに分からないことが多い。記憶が混ざり合い、なぜ自分がこんなに苦しいのか分かっていない。だから朝彦と話すうちに自分の中から、あるいは朝彦から自分を知る。「お前を見ていると、みんなが俺じゃないと知る」。朝彦が「当たり前だ」と言うと「当たり前だな」と驚きながら言う。繊細に、自分の中にあるヒビを埋めていく。
17歳の滝澤朝彦は無知というか、「井の中の蛙」という印象を受けた。「休んだところのノートを見せるから、そしたらそんなに悲観しなくても、まだ1年の1学期だし」とちょっとどうでも良さそうに言ったり、自分は所詮リアリストと言い、小さな未来をやはり投げやりに言う。そのくせ自分が2年生になったら成績が落ちたと嘆くし、小さな未来を語れない絶望にはひるむ。

17歳のふたりは、見てる側と同じくらいこのあとを知らない。だから夜彦の告白が大きく重く聞こえて、朝彦も相応に驚く。ひとつひとつのセリフに意味があって、“聞く側”がちゃんと聞いて飲み込み、ふたりは毎回“出会う”。
千秋楽後、滝澤さんがLINEライブをやっていて(体力すごいな…)思わず見てしまったんですけど、「同じ演技はなかった」といったことを言っていた。(意訳ですが)「夜彦の発言の受け止め方、夜彦がこういうニュアンスできたら、その時々で演技が変わる。1つ1つパズルの組み合わせが毎回違うから、ゴールが変わることもある」と。聞いててひっくり返っちゃった。見たからこそ分かる説得力があった。
互いの言葉をよく聞いている2人だった。話すうち、夜彦はだんだん記憶のふたが開き、初めて父のことを話す。理由を見つけ、全部がつながっていく。朝彦は彼が抱えた悲劇を1ミリも予想していなかっただろうから、とても苦しそうだった。「…もう聞けない」と言う。聞けないこともできない、聞くことしかできない。自分の手には負えない。朝彦は言う、「分かったよ」。夜彦は「分かったって何が」と返す。戸惑い、間をため、「どっちかに付き合おう」「生きるのか、生きるのを、やめるのか」「俺も一緒に死ぬよ」このあともいくつかのセリフが続くが、朝彦は1つ1つをゆっくり紡ぐ。何を言うべきか、夜彦を見ながら自分の中を探って、本当に夜彦が死にたいのか図りかねながら、朝彦は約束を言う。夜彦は喜び受ける。受けたことに戸惑う。十七歳が、いる。

三十歳のふたりは面白かった。朝彦は神経質で口うるさい。夜彦は健やかそうに見える。ふたりが反転したというより「2人が2人の荷物を分けた」ように見えた。朝彦は小さなことで気に病むけど死病には至らない。夜彦は朝を朝と思わなくとも、それに近い光は感じるだろう。冒頭抱いた「夜彦っぽい朝彦と朝彦っぽい夜彦」がそのまま存在する。始まりに戻る綺麗な物語を見たような感情。

 

 

*3つの解釈

 

 

 

この作品の結末は大きく分けて3つ、考えられる。夜彦は生きているのか? 朝彦は生きていくのか? 私は見たいように物語を見ることしかできないし、分かることしか解釈できない。一度目は夜彦も朝彦も飛んでしまいそうだったし、二度目はふたりとも生きているようにも感じた。このチームに限らず役者の解釈は分からない。

でも生きていてほしいと思う。青春だった、ふたりで必死になった、約束だった。窓へ去っていった17歳の夜彦は30歳の朝彦を優しく大切に許した。それは幻想夜彦のはずなんだけど、幻想は現実と乖離しすぎることができないと、ないものを描くのは難しいと考えている。それくらい幻想も現実も、夜彦は大切そうに朝彦を見つめていた。
なにか、とは何か? と朝彦が想うこと。「なにか」ではあった。そうなれるふたりだった。

 

 

 

*遠ざかる十七歳
AチームとBチームと同じように、Cチームを本当に見れてよかった。それはどんどん私から遠ざかっていく十七歳に、また触れることができたからだ。
十七歳は、そうだった。年を重ね「分かることが増えた」と思うのに、機微を忘れてく自分がいた。十七歳は無垢なわけではなく知らないことが多いだけで、無邪気なわけでなく多感で達観しているようなところもある。Cチームのふたりは、ちゃんと大人を、こんなふうに忘れてばかりいる私を、足蹴にしてくれるだろう。大人って何も分かってないし、医者なんて死んでも嫌だ。もがき、知って、生きるを重ねる、いのち。
そういう鮮やかなものに物語を通して触れることができて、うれしかった。

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

*役者に圧倒された2020年

今まで、この物語の解釈や演じ方というのは、年齢は強く影響するだろうと思っていた。もちろんそういう側面はあるだろうとも思う。今回は別のことを考えた。Bチームの吉村朝彦を見て(大して役者に詳しいわけでもないのに)パーソナリティーは大きくかかわっているのではないか?と思った。それほど朝彦が必死に手を伸ばしていた。

 

*朝彦を救いたい

朝彦と夜彦の公演を終えた、演出家の中屋敷さんがツイキャスにて「初演は夜彦を、前回はふたりを、今回は朝彦を救ってやりたいと思った」と語っていた。納得感と驚きがいっぺんにきて、変な気持ちになる。『朝彦を救ってやりたい』。確かに朝彦も救われるべきだ。2人しかいないから対比で見てしまいそうになるけど、そうなのだ。朝彦も必死で、傷ついてて、囚われてて、救ってやりたいと思う。

 


*いつかまた夜になる

今回、見に行った友人が「人は誰しも朝彦的な側面と夜彦的側面を持っている。どちらの気持ちもよく分かった」という感想をくれた。一方私は前回の公演で、「自分が朝彦に近づいてゆく」という感想を抱いた。今もどんどん強くなっていく。健やかになっているという部分もある。昔は無意識に、自死とかそういう願望というのは、若い人間のものだと思っていた。そんなわけはないのに、そう思っていた。

だから、この感情は、傷は大人に分からないそれなのではないか?と。それで、どんどん歳を重ねる中で、幼い時の「それ」と大人の「それ」は鋭さが違うとは思う。でも結局「それ」はある日突然なくなったりはしない。

2020年のふたりを観て、「私はまたいつか夜になるかもな」という予感を覚えた。わけない不安を一度克服したとて、それがまたやってこないなんてことはない。人生はながい。朝と夜を繰り返して、生きていくのかもしれない。よっぽどそのほうが救われるような気がする。予感。でも自死は許せたりしない。

…例えば夜彦の父の死が、夜彦の一部を壊し、殺していったように。死というのは関わった人間の一部を奪う(亡くす、失うという言葉のほうが正しいかもしれない)行為であるというふうに考えることにして、自死は許せないということにして、生きている。同時につきまとう虚しさも感じるようになった。死にたい人間に私はこう考えると、許せないと、言えるか? じゃあどんなふうに、死なないでくれと言えばいいんだろうか。

―――そういうことを、いろんな朝彦に教えてもらっている。言葉だけじゃない何かを、いつも教えてもらう。私が朝彦が好きな理由は、夜彦に感情移入することと同じだ。

 

 

 

朝はくる。夜もきっときてしまう。でも、その先にはまた朝がある。
繰り返しながら、生きていきたい。

2020年、6人の朝彦と夜彦に出会えて良かった。
どうか健やかに、おやすみなさい。