日記。

1年ほど前に日記を公開しました。

 自分の感情に区切りをつける儀式が必要だったからで、当時自分を吐露することがマイブームだったという理由もあります。
 書きながら、この日記は1カ月か1週間だけの公開にしようと思いました。まず第一に、その感情に登場する人物がいて、私だけが主張するのはその相手に対して不誠実だと思ったからです。公開して少ししたあと、これは自傷であると気づきました。自分の傷を、インターネットという境界のない海に投げることは結果私の体を汚染したのです。
 感情を海に開放する快感と汚染という自傷の境界線を事前に見極めることは容易ではなかったので、試してみた価値はありました。それから自分の感情を不用意にインターネットに投げることはやめて、次、気を向くまで待つことにしました。未来の自分はきっといつか選びたいほうを選ぶだろうと、信頼してみることにしたのです。

 

 今こういうことを書いているのは、とある友人が先の日記を読んだあと、「もう公開しないのか?」と聞いてくれたのがきっかけです。当時の私が考えることと今の私が考えることは違うし、共通の知り合いがいて彼女たちに気まずい思いをさせるのは気が引けると説明しました。
「ならば」と友人は言いました。「今考えていることを書けばいいのでは?」
 結局、そのアイデアを私は却下できないからこうして書いているのか、そうでなくても書いていたかは分からないけど、日記を書いています。いや、違うな。ずっと考えていたけど誰も聞いてこないから、私の体にたまったものが日の目を見たいと手を上げだしたからかもしれない。


 季節は春と初夏をいったりきたりしています。新型コロナウイルスの影響で家にいることが余儀なくされている。あれほどせわしない毎日が好きだった私がずっと家にいます。まあ、「せわしない毎日が好きだった私」はもう10年くらい前の話です。10年前から今の間までにだんだんと、せわしなさは緩くなり、時間を味わうようになったところはあります。だからこの「家にいなければいけない時間」は、それほど私を苦しめません。ラッキーでした。学生だったらばアルバイトの収入がなく苦しんでいたろうし、5年前の私なら勢いのままインターネットで不必要な買い物をしていただろうし、3年前の私なら貧乏妄想に取りつかれていたでしょう。私が、今の私になっていたのはラッキーでした。
 家にいることに暇だと感じることもありません。Amazonプライムには映画がたくさんあって、世の中には本があふれていて、インターネットには読み切れない人間たちがいます。YouTubeにはまだ見ていないジャニーズジュニアの動画がたくさんあって、趣味の短歌を詠んだり、友人とオンラインで通話したり、同居人と話してみたり、とにかくこの生活は過不足がありません。1年前の私には想像もつかなかったと思いますが、幸福も過不足ありません。いえ、1年前の私はもうそろそろそのことに気づいているかもしれません。

 「家」というものに対しての苦手意識を長く持っていました。今ではその感覚は小さくなってきました。こんなことを書くのは、ヤマシタトモコの『違国日記』を読んだからかもしれないな。家が…怖かったのかな。どうだろう。ここは私の家ではないと思うことは心地が良かった。思春期は帰りたいと思っても帰る場所はないとも思う普遍的な少女だった。家に関する感覚はめまぐるしく変わるので一口には言えない。ひとつ前の家は、楽園だった。エデンの園のイメージだな。これは比喩ではあるが、捨てられないものばかりが転がっていて、もう永遠にここでいいと思っていた。狭い部屋だったし執着があったわけではないが、あそこには全部あった。お弁当と穏やかな日曜の午後と花の名前を、捨てなければいけなかったから痛かった。永遠を望んだからこそ、そこから出ていかねばなければ、捨てたくないものを捨てなければいけなくなった痛みは相当だった。

 

 今の家には同居人がいる。ぼろぼろで実家に戻るつもりだったところを、大学時代の友人に拾われた。経緯は以上でも以下でもないのだけれも、書いてみて物語みたいだなと自分自身不思議に思う。彼女とは特にルールを決めず、出社と帰宅時間が異なったため食事は各々で作った。朝、良ければどうぞとお弁当が置いてあったことが一度だけある。おののいた。失ったと思ったものが目の前にあって、でも、やはり失ったものは失ったもので目の前にあるのは似ているだけの違うもので、ならばこれはなんなのだろう。望むより早くただ存在しているそれの受け止め方が分からなかった。本人にはそんなことは伝えず、おいしかった、ありがとうとだけLINEした。たぶん、そうした。

 日々は、驚くほど穏やかに過ぎていった。ある日、寝に入ろうとする同居人に「ファミレスに行くけど、気にしないで」と言った夜があった。夜のファミレスに行くのが好きなだけであなたの眠りが迷惑じゃないのだという気持ちと、そもそも夜のファミレスが好きであるなんてという恥ずかしい気持ちが混ざってしまい、妙にたどたどしい話し方になってしまった。家出するみたいな言い方だと同居人ははらはらしだして、より申し訳なくなった。この家には気遣いがある。そのことに慣れたことはない。

 しばらくして、箸と汁椀をもらった。この家はもともと箸は何膳もあったから、そのとき初めて自分の箸を買ってないことに気が付いた。同居人はまずその事実に驚いて、ここはあなたの家でもあるんだからとかなんとか、確かそんなことを言った。私はそのことにもまた驚いた。拾われたような、居候のような気分があったけど、なるほど、そうか。ここは、布団と服、ついには箸も増えて、私一人分の人間の存在が許されてる「家」なのか。ここはあの楽園と違って(真実にはなり得なかったけれども)永遠だけがないけど、十分だった。箸はそのあとすぐ、片方の先端が欠けてしまって、買いなおそうと思っているうちに外出自粛が始まった。まだ、欠けている。

 もしも今、一人暮らししていたらば、まず部屋は汚かっただろうと思う。同居人の整理整頓は分かりやすく忙しさと比例するので、最近はずっときれいだ。私は綺麗でも汚くてもどうだっていいけれども、せっかく綺麗に、ていねいにされている部屋をぞんざいにするのは気が引けて最近はずっと―――できる範囲でだが―――部屋を綺麗にしている。外出しない分、時間は十分だ。

 今日は、私の寝室となってる屋根裏部屋が汚くなっていたので、棚を組み立てた。前の家で使ってて、いつかもしからと思っていて置くだけになっていたバカでかいスチール棚だ。散乱している本を寄せて段ボールを積んで、棚を組み立て終わって、段ボール・服・本を棚に戻そうとするところで飽きた。キッチンに行ってコーヒーでも飲もうと思ったら個包装のお菓子が食べかけで、朝に入れたコーヒーが3口分程度残っていた。これもきっと飽きたんだろう………

 外出自粛で生活に割く時間が増えた。料理はするし掃除はするし洗濯はする。嘘みたいだな。人と住むことに慣れた私は、人のリズムにあわせることに長けるようになった。あわせるというか、自分のリズムが狂っても不快に思わないことと、むやみに人の時間を邪魔しないこと。たぶんこれはもともと備わっていた才能でもあって「開花した」ような感覚すらもある。その代わりなのか「自分の時間を自分で律する」のは下手なままだ。今のところ弊害はないし、直すきっかけも得られないし、はっきり言えば直す気がない。
 閑話休題。最近はずっと生活をしている。生活だ。生きる活動。どこにも行けないけどだいたいのものは存在している。穏やかで起伏がなくて、活動自粛という制限は焦りをも奪う。その幸福はたまらなくて、怖くはある―――どう怖いかと言えば、この穏やかさに慣れることが怖い。これはコントロールできないもので心が勝手にそうなる。イベントごとがある日々のおかげで感動できたものが、鈍くなって凪いでしまうことを、心が勝手に自殺だと勘違いしだす。死にたくないと抵抗しだす。不幸じゃないことが余計に怖い。「怖い」も正確な言葉じゃないけど、今のところはそう表現している。

 

 それでもこの生活には過不足がないし、やっぱり幸福だ。こういうときは少年アヤちゃんの「愛されることはせつない」というワードを思い出す。愛されることは、せつないのだ。自分を放棄できなくなるからだ。(今の私はもうしないが)刹那的に生きることは快感であるし、未来を考えないここと自分を大切にしないことは親和性が高くて、楽なのだ。何もかもそれで解決するからだ。「愛されるということ」はこの行為にある障害だ。愛されていると思えば思うほど、その相手に誠実であろうとすればするほど、自分を大切にしなくてはいけなくなる。逃げていたものが目の前に並べられる。でも全然嫌な気分じゃなくて、「せつない」…正確な言葉だと思う。
 先述どおり、私はもう私を放棄したりはしない。絶対とは言い切れないけど、それをするには大切にしたいものが多すぎる。幼いころ綺麗事に聞こえてた言葉たちは、綺麗事ではなく信じたいものとして降るようになった。大人になるというのは、不思議だ。何も変わってないと、成長していないと感じるのに、あんなに信じることが怖かったことにむしろすがりだすのだ。変だ。


 夜になるうちに何を書こうと思ったのか、この文章の終着点を見失ってしまった。口調も気づいたら変わっているしね。
 過不足がないこと。昔より不安は十分小さくなったがゼロには永遠にならないこと。生活はまだ怖いと思っていること。活動自粛という期間は休憩に見えるけど絶対に失われ続けていて、気づけないくらい麻痺していること。まだまだあるだろうけど、今の私が感じることたち。恋愛の話は特に出てこなかったが、成果がないから書くことも特にない。「思っていること」なら別途でまた書いていいかもしれない。

 いつかみんな今日を忘れるということについて、ずっと考えていること。今日の日記。今日思い出せる限りの、今日までの日記。